うなぎ、という単語で条件反射的にヨダレが出てきちゃうとか……! 私ってばパブロフの犬みたいだなって嫌になる。
うなぎ屋に連れて行かれる前に御神本(みきもと)さんから子犬に例えられて、頭を撫でられまくったのを思い出した私は、何故かドキドキして焦ったの。
わ、私、犬じゃないしっ。こんな意味不明な男をご主人様と定めてときめく……じゃなくてっ! な、懐くなんてあり得ないんだからねっ!?
*** 「――び輪がまだなのが気になってるんなら明日にでも見に行こう」私の戸惑いを、勝手に妻としての体裁が整っていないことか何かだと勘違いしたらしい御神本さんが、そう言って気遣わしげに頭を撫でてきて。
ふわりと漂う例のいい香りに心臓バクバク。そのくせ口の中にはじわりと生唾が滲んで……ときめきたいの、餌付けされたいの、どっちなの!?と叫びたくなる。
いや、だからこの人、私のご主人様じゃないんだからね、しっかりしなさい、花々里(かがり)!
ちょっと美味しいものを立て続けにもらったからってチョロすぎるでしょ!?そのせいで彼を跳ね除ける動作が遅れてしまうとか、情けなさ過ぎる――。
「わ、私っ、犬じゃないので首輪は!」何とかそう言って、彼の手をスパーン!と払い除けたら「ん? 花々里は首輪が欲しいのか?」と、その手を握られて間近で首を傾げられた。
だから要らないって話なんですってばっ!
「俺は妻に首輪をつける趣味はないから……そこはネックレスで妥協してもらえると助かる。ネックレスなら指輪を見繕うついでに一緒に買ってやれるしな」
とか。ちょっと待って、ちょっと待って。
話、聞いて?「なっ、んで。指輪とか首輪とかネックレスとかプレゼントしてくれる話になってるんですかっ?」
「――? だから首輪は却下だという話なんだがね? 花々里こそ俺の話を聞いているか?」
ひーん。
なんか話が劇的に噛み合いませんっ! 「と、とりあえずっ! 気持ちを落ち着かせるためにさっきの飴、もうひとつずつもらっていいですか?」腹が立ったので、どさくさに紛れて言ってやったわ。
ふふふふふ。 私、賢いっ!余談だけど、私、桃味の飴の方が好き!
酸味も少ないし、何より香りがいいもの。そう思って、口の中がすっかり桃飴気分になっていたんだけど。
「すまん。飴はどちらも車に置いてきてしまった」
と言われてガッカリ。あからさまに意気消沈した私に、御神本さんが「代わりと言っては何だが、山陰の方の知り合いから清水羊羹(きよみずようかん)の美味いのが届いていてね。――それなんかどうだね?」
と提案してきて。「私、端っこに砂糖が粉をふくような羊羹(ようかん)が大好きなんですけどっ」
「羊羹」と言う単語に、思わず勢い込んで御神本さんを見上げて好みを告げたら、「保証しよう」とにっこりされた。
どうしよう。私、美味しいものをあげると言ってくる時の、彼の笑顔が好きかも知れません。
*** 食べるなら中へどうぞと背中を押されて、私、さっき外から見て凄いっ!って感心しまくった日本家屋の一室――多分客間?にいます。あれ? ちょっと待って? 何、まんまとそそのかされて家に連れ込まれてるの、私っ。
美味しい羊羹をいただいたら、着替えとか勉強道具とかないので……って適当なことを言ってさっさとトンズラ……じゃなくてお暇しよう。
*** 目の前に、お手伝いさんと思しき優しそうなお婆さんが淹れてくださったお茶が置かれている。茶托にのった、ふた付きの茶器。
それだけで、何だかいつも飲んでいる我が家の番茶とは格式が違うように思えてしまう。 そもそも私、何でもかんでもお気に入りの猫さんマグカップで飲んじゃってるし。正面に座した御神本さんに、「冷めないうちに」と促されて、蛍が飛び交っているみたいな模様の入った茶器――萩焼と言うんだとか――のふたをとったら、待ち構えていたみたいにゆるゆると湯気が立ち昇った。
綺麗なうぐいす色の、上品な香りのお茶だ。
きっと我が家には無縁のいい茶葉なんだろうな。そう思ったら飲まなきゃもったいないって思ってしまって、「いただきます」をして口に含んだの。
舌の両側に染み渡るようなトロリとした独特な甘味。こんな美味しいお茶、初めて飲んだかも。ほぅ、っと息をついたら「落ち着いたか?」って真っ直ぐな目で御神本さんに見つめられて。
彼も私と同じようにお茶を飲んでいるけど、やはり所作が美しくて、同じ茶器のはずなのに私が手にした時より数倍気品がプラスされて感じられる。美形の若様ステータス、ホントずるいな。
でも、今回のメインは当然だけどこのお茶じゃない。
お茶だけで落ち着くとか、ないんだからっ。私は彼の美貌に惑わされずに、ちゃんとまだ落ち着いてませんよ?と言う意思を持って小さくフルフルと首を横に振ったの。
「――そちらもどうぞ召し上がれ」
それで私の言わんとしていることが分かるとか。御神本さんもなかなかだわ。
お茶の横に添えられた羊羹に視線を流すと、にっこり笑ってゴーサインを出してくれる御神本さんに、思わず顔が緩みそうになる。
今回は「待て」をしなくていいんですね?
た、食べちゃいますよ?
羊羹横に添えられた黒文字を手に取って、恐る恐る御神本さんを窺い見たら、もう一度うなずかれた。
花々里《かがり》が話してくれた、〝大好きだったお兄さん〟とやらは、きっと、俺たちにとって弊害にしかならないよね? そいつはある日突然あの子の前からいなくなったという話だけど、それを言うなら俺だってそうだ。 だとしたら、いつまた俺みたいに舞い戻ってこないとも限らないよな?と思ってしまって。 話を聞く限りだと、腹立たしいことに花々里にかなり影響を与えた男のようだし、全くもって油断が出来ないじゃないか。 何しろ花々里は幼少の頃、あんなに「よりつな」「よりつな」と懐いてくれていたはずなのに、いざ再会してみても、俺のことなんて微塵も覚えていなかった。 そればかりか、未だに思い出しもしないからね。 もしかして、という懸念が拭えない以上、花々里を〝法的に〟自分のものにするのを急いだほうがいいのかも知れない。 あの子がまだ20歳《はたち》にも達していない未成年だとか、大学に通う学生だとか、そんなのは正直どうだっていい。 そもそも俺たちはすでにひとつ屋根の下で寝食をともにしているし、そこに書類上の〝婚姻〟という事象が加わったからと言って日常生活には何ら変化はないだろう? とりあえず、花々里は幼なじみくんのことにカタを付けるまでは待って欲しいと思っているみたいだから。 そこはまぁ、待ってやるつもりだ。 あの彼だって相当花々里に傾倒していることを思えば、不穏分子はひとつでも潰しておいた方がいい。 それは俺も大事なことだとは分かっているつもりなんだけどね……。正直その時間ですらも惜しいと思ってしまうのは、まぁ致し方ないよね。 花々里の気持ちは極力尊重してやりたいと思うのと同じくらい、俺が焦っていることも理解して欲しい。 あー、クソッ! 花々里は幼い頃、あんなに餌付けしたにも関わらず
花々里《かがり》に「俺のこと、〝男として〟好きになれそうか?」と問いかけたとき、柄にもなく物凄く緊張してしまった。 それまで何度も彼女に対して「嫁に来い」的なことは告げてきたし、何なら軽く騙して婚姻届に署名捺印だってさせた。 なのに、だ。 花々里と生活をともにして、彼女のことを知れば知るほど、花々里の世話を焼けば焼くほど。 花々里にのめり込んでいく自分を感じて、どうしようもなく焦燥感が募った。 花々里が絡むと些細なことで腹が立つし、逆にあの子がほんの少し俺に気がある素振りをしてくれただけで、やたらと嬉しくなってしまう。 いつの間に、俺はこんなに花々里に惚れ込んでしまったんだろう。 確かに、見舞いに行った折、病院で村陰《むらかげ》さんに成長したお嬢さんの写真を見せてもらった瞬間から、彼女のことは好みのど真ん中だと認識していたし、何としても手に入れたいと強く願いはした。 けれど、だからといって、自分のペースを乱されるほどの激情に飲まれるとは思っていなかったんだ。 なのに今は何てザマだろう。 自分のことを〝男として〟見てくれるかどうか問いかけるだけで、あんなに緊張するとか。 俺は実際自分のことをそれほどスペックの低い男だとは思っていない。 同年代の他の奴らに比べたら財力だってある方だと思うし、顔だってそこそこに整っていると自負している。 子供の頃から異性にちやほやされてきたのも否めないし、何より長じてからも取っ付き難い雰囲気だと自認しているいもかかわらず、そこそこにモテてきた。 だけど不思議とどんな女性たちのことも〝遊ぶ相手として〟見ることはあっても、〝本気にだけは〟ならなかったんだ。 何て言うのかな。 一緒に食事をしても楽しくない
何とか身体を丸めて服をダボつかせたいのに、そのまま壁に両手を押し付けるように磔にされた私は、逆に胸を突き出したみたいな格好になってしまって真っ赤になる。 「より、つ、なっ、お願っ、離して……っ」 涙目になりながら訴えてみたけれど、頼綱《よりつな》はまるで聞く耳を持たないみたいに微動だにしてくれないの。 そればかりか、さっきは慌ててそらしたはずの私の胸元を、溶けてしまいそうなぐらい熱のこもった視線で見つめてきて、もうそれだけで余計にそこが固くしこってくるのが分かった私は、どうしたらいいのか分からなくなる。 「やっ、見ない……でっ」 頼綱、男の人の目をしてる――? そのことに気付いた途端、恥ずかしさからだけじゃない熱がぶわりと身体を満たして、ますます混乱してしまう。 「研修中の身とはいえ、俺は一応医者だからね。多分普通の人よりは沢山女性の身体に接する機会があったと思う」 さっき、私が思ったことを頼綱自身に告げられて、私は居た堪れない気持ちになった。 だからっ、私の身体はそんな目の肥えた頼綱には余りにもお粗末で申し訳なく思っているのっ。 お願いだから……隠させて? 別に直接肌を見られているわけじゃない。 けれど、ツンと張り詰めた先端の形状がありありと浮き上がった胸元を見られるのは、何故だか裸を見られるよりも恥ずかしく思えて。 ギュッと目をつぶって頼綱からの視線を視界から遮断したら、すぐ耳元に頼綱の唇が寄せられた。 「――だけどね、花々里《かがり》。俺が心の底から〝見たい、触れたい〟と思うのは、キミの身体だけだよ?」 意図したわけではないと思うけれど、頼綱が一音一音発するたびに耳孔を彼の呼気がくすぐって。 「――んっ」 思わず小さく
入り口に突っ立ったまま廊下を睨みつけて止まってしまった私に、「左だよ」とすぐ背後から頼綱《よりつな》の声がかかる。 いつの間にか、私のすぐそばまできていた頼綱に、身体の向きを変えるようにそっと両肩に触れられて、 「わ、分かってるもんっ!」 思わず肩を跳ねさせて、彼から距離をとるように飛びのいてから、それを誤魔化すみたいに頼綱の方を振り返って目一杯虚勢をはってみせた。 と、そんな私を見るなり頼綱が固まってしまって、そのことに気がついた私は「ん?」と思ってキョトンとする。 「花々里《かがり》、それ……」 呆然としたようにそうつぶやいた頼綱が、慌てたように視線を背けた。 それを見て、私は頼綱に目を逸らされたばかりの自分の胸元を見て――。 「――っ!」 薄手のパジャマの布地をしっかり持ち上げるように、胸のところに2箇所、ツン!……と存在を誇示するように立ち上がっているものが目に入って、思わず声にならない悲鳴を上げた。 そのままギュッと胸元を両手で隠してその場にしゃがみ込んだら、頼綱がふわりと身体に毛布をかけてくれる。 今まで包まっていたそれを身体にもう1度きつく巻きつけると、私はしゃがみ込んだまま恐る恐る頼綱を見上げた。 頼綱は、未だに私の方へ背中を向けたまま立っていて。 それだけならまだしも「――その……、すまない。ふ、不可抗力とはいえ、キミに恥ずかしい思いをさせてしまった」とか……。 何で貴方が謝るの!? 「こっ、こちらこそ……そのっ、ごめんなさいっ! 私、いつも寝る時はブラ、つけてなくて……。それでっ」 今日はお風呂上がり、頼綱の部屋に呼ばれていたにも関わらず、ついいつもの癖で下着をつけずに出向いて来てしまった。
素直な女の子なら、ここで「貴方のことがどうしようもなく好きなのっ」と可愛らしく言えるんだろうけれど、恋愛偏差値が低い上に色々こじらせてしまっている私にはこれが精一杯。 もちろん、先の会話との流れで完璧に「好き」だと告白しているも同然なのは分かってる。 でも。 それでも尚、言えない言葉が胸の内に降り積もった。 だけど……頼綱《よりつな》には、それだけで充分だったみたい。 「花々里《かがり》……っ」 毛布ごと包み込むように私を抱きしめると、そのままベッドに押し倒してきた。 頼綱の腕の中に閉じ込められた体勢で、簀巻きのままベッドから彼を見上げたら、頼綱が私の上にそっと覆い被さってきて、 「俺は……今のキミからの言葉を自分に都合の良いように解釈するけど、――構わないか?」 鼻先に吐息が掠めるくらいの至近距離で低く甘く問い掛けられる。 私は――。 頷く代わりにそっとまぶたを閉じた。 *** ギュッと目を閉じた私の顔にサワサワと触れるのは、頼綱の前髪? そう思ったのと同時、とても優しくキスを落とされて、薄く開いた唇の合わせ目から、やんわりと舌が伸ばされる。 「……んっ」 小さく喘ぐようにしてそれを受け入れると、私はおずおずと頼綱に応えた。 今まで頼綱からされたどの口付けよりも、今されたばかりのそれは甘く優しい。きっと、頼綱と気持ちを通わせて初めてのキスだからそう思うんだ。 それに、今回のは今までとは違って、食べ物じゃなくて歯磨き粉味《さわやかなミント味》のキスだった。 まるで、少女漫画か何かに出てきそうな、そんな味。 チュッと音を
「さて花々里《かがり》。謝罪の代わりに、僕からキミに何らかの要求を突き付けても構わないよね?」 簀巻《すま》きにされた――実際には自分でやったんだけど――状態のまま、何とか彼の手中から逃れようとクネクネと悶える私に、頼綱《よりつな》がこれ以上ないくらいににっこりと微笑みかけてきた。 ひぃー! その笑顔、「僕」口調でされるとめちゃくちゃ怖いですっ!! 「な、な、な、何をっ」 私は今からご主人様にどんなひどい折檻をされるのでしょうか!? 不測の事態に備えて何とか手だけでも出したいのに、頼綱はそれを許さないみたいに、毛布ごと私の身体をぎゅっと抱きしめてきて。 それはまるで「逃がさないよ?」と圧を掛けられているようで、ますます怖い。 「ねぇ花々里。うちに居候しているとか、俺に雇われている身だとか、そういうのを全て抜きにして正直に答えて欲しいんだけど」 いいね?と視線だけで念押しされて、私は蛇に睨まれた蛙みたいに射すくめられてしまう。 頼綱、何てかっこいいんだろう。 オールバックでバッチリ髪の毛を整えている頼綱も隙がなくて見栄えがするけれど、今みたいに無造作に下ろし髪にしている彼は堪らなく色気があって素敵だ。 そんな整った顔で、前髪越し、真剣に私の顔を見つめてくるなんて……ずるい。 私、その目には逆らえそうにないよ。 観念したように小さくうなずくと、途端、頼綱が何故か緊張したように居住まいを正した。 「頼、綱……?」 その様子にこちらまで気持ちが張り詰めてくるようで。 恐る恐る彼の名前を呼んで、頼綱を不安いっぱいになりながら見上げたら、彼はそんな私をじっと見下ろしてきて。 いつもより更に低い